家の一族はおそらく・・・


赤松氏の別名である備前の明石氏のほかに、明石氏には2つの系統がある。ひとつは鎌倉・室町両幕府の重役(奉行衆)で関東(鹿島)出身。もうひとつが古代以来、戦国時代まで明石郡(神戸市西部、明石市)の主として君臨した明石氏である。古墳時代の明石国造の流れをくむともいわれている。
居城は枝吉(えだよし)。 明石川右岸の丘の上にあった。
明石尚行(越前守)は応仁の乱で東軍に属し、山名方の勇者、片山備前守を1467年(応仁元年)に討ち取り、その子祐実は兵庫で大内政弘と戦っている。
明石氏は領内において独自の裁許状を発給し守護層からの独立性が高かった。
16世紀半ば以降は三好氏と行動を共にし、その滅亡も三好信吉(豊臣秀次)に殉じている。

神戸市の古刹、太山寺は明石氏が1539年に寄進した数々の古典を所蔵している。 寄進をした明石長行は武勇ばかりではない教養人であった。 この点、同時代の実力者であった三好長慶と似ている。 京都の貴族と姻戚関係を結んでいたともいわれる。
典籍は、物語として伊勢、曽我、平家。 和歌集として古今、後拾遺、明題、月清、拾遺、後撰、玉葉など。このうち古今、明題は現存しない。

播磨の中世は守護赤松氏と東播磨守護代別所氏が守護層を形成し、明石、依藤、中村、小寺、浦上が国人層を形成していた。室町幕府の重役、蜷川親元に宛てた明石氏をはじめとする国人たちの書状が残っている(文明16年)。内容は幕府に対して守護を赤松正則から赤松澄則に交代させるよう求めている。播磨における国人たちの力の大きさがうかがえる。

ちなみに福岡藩の藩祖 黒田官兵衛孝高(如水)は播州出身(旧姓、小寺)であり、その母は明石氏である。 江戸時代を通じて明石氏の血族は繁栄したとも言える。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
の流れをくんでいるものと思われる。
みんなの家の歴史、教えてくれ!!!ネットで調べた結果でてきたものでもいいし祖父母又は曾祖父母からきくのもよし!!!

・・・より上の文はfilologos.diarynote.jp/200904212045093319/
というブログ?から持ってきました!!!すみません。有難うございます!!!